【セミリタイア】改めて色々思索してみた【サウナ】
「サウナはいいぞ」
どうも、アロです。
久々にサウナ行ってきました、なので今日はちょっと投稿遅め。
- サウナはいいぞ
- 最近の自分の行動について振り返ってみた
- 欲求・喜びを阻害していた原因はなんだったのか
- 自分は何が嫌でセミリタイアを望んでいるのか
- 余談:そういえば不具合調査は嫌じゃなかったな
- その他:お金を使う事への忌避感について
サウナはいいぞ
序文にも書きましたが、サウナはいいですよ。
汗かいて、水風呂入って、外気に当たって、身体もですが、特に頭の中がスッキリする。
この外気に当たってる時に、色々と思索がポジティブに浮かんでくるんですよね。
「あれはこういうことだったんだな」とか「これからどうしよう」とか。
自分は基本ネガティブ型の思考してるんですが、この時は異様にポジティブになります。
そんな素敵な体験を、今住んでいる場所からなら近所且つワンコインで味わえるのだから、趣味・娯楽としてのコスパは本当に高い。
サウナ最高!
最近の自分の行動について振り返ってみた
とまあそんなこんなで、今日もサウナ~水風呂~外気浴で最近の自分について考えていたのですよ。
最近はセミリタイアまでのおおよそのスケジュールも決まり、
セミリタイア後にどうやってお金を稼ぐかの導線もある程度見通しを立て、
心穏やかな日々が増えてきました。
ダイエットについても帰省で増えた分はもう返済済で、再スタート状態なのでいい感じ。
そんな中「あー個人事業主やるなら簿記は"知って"おきたいよなあ」と
簿記の学習をちょこちょこ始めました。
ここで重要なのは「資格を取る」ではなく「簿記の知識を身に付ける」ということが目的な事。
つまり知識として簿記を習得したいのであって、資格は優先度が低いor無し。
そもそも僕の場合、資格のために勉強すると、試験後に何も頭に残らないんです。
僕はこれが昔から非常に嫌で、あんまり資格取得に意義を見出せていませんでした。
で、動画やテキスト読んで簿記の知識を付けていっているのですが、これが意外と悪くない。
あまり抵抗感がないと言いましょうか。
もっと言えば「知識を付けることに拒否感が殆ど出てこない」。
なんなら、今後は昔不合格だった「応用情報技術者」や「TOEIC」の知識を得るのもいいかもしれないと思ってしまった。
「勉強ってこんなに悪くないものだったっけ…」
そんな感覚です。
ここで疑念が生じました。
「この感情、衝動をこれまで阻害していたものはなんだったのか」
と。
欲求・喜びを阻害していた原因はなんだったのか
僕は今休職中です。
つまり、労働から一時的に解放された状態です。
学生ですら勉強(課題)という義務がある状態だったので、ここまで時間的に解放された状態というのは
今までの人生では保育園より前ぐらいじゃないだろうか。
学校に行っている時は
「テストで点を取るために、試験に合格するために知らなければならない」
「課題をこなして提出しないといけない(=課題をこなす知識を得ないといけない)」
こういった意識があったと思います。
なので、ある程度の成績は出していましたが、好奇心では勉強はしていませんでした。
その後、社会人になった後は
「納期までに何が何でも成果物を作らなければならない」
「成果物のために業務について知っていないといけない、知らないなら1秒でも早く知った状態にしなければならない、知らない部分があることは許されない」
「組織の看板を背負っているのだから、何をおいても今の業務を達成しないといけない」
「生き残るために、常に成長していないといけない(=資格や知識を得ないといけない)」
という、学生の頃よりも遥かに息苦しさを感じる状態で過ごしてきました。
今はそれらから解放されて、ようやく少しずつ好奇心が芽生えてきている。
この感覚は、学生の頃ですらなかったかもしれない。
つまり、
「自分は外から与えられる"義務"や"課題"が人よりも嫌いで、それは好奇心や行動力をも潰してしまう毒になっていたのではないか」
という一つの仮説が導き出されました。
現にダイエットという自己で設定した課題は特に不快感もなく順調にこなせています。
多分、会社からの義務やノルマが重なった場合、この行動力は維持できなかったと思います。
余談ですが、学生の頃にはダイエット成功させたことがあるので、多分それが自分が耐えられるギリギリの義務レベルなんでしょう、それでも知識欲は死んでいましたが…。
自分は何が嫌でセミリタイアを望んでいるのか
以前記事で「自由な時間が欲しい」という理由でのセミリタイアを望むようなことを書いていたと思います。
ただ、僕ってそんなに自由な時間を得た上でやりたいことって殆どないんですよね。
単に「穏やかな余生を過ごせればいい」という感じ。
今回のサウナでの思索を加味すると、この「穏やかな余生」とは、
「外からの義務に心身と自由を潰されないような生活」
という定義なのかなと思いました。
現に休職中の今の生活はちょっとアクティブさに欠けていますが、比較的理想に近いのではないかと感じています。
ここに必要な労働を加えた時に、どこまで穏やかさをキープできるかが課題になりそうです。
余談:そういえば不具合調査は嫌じゃなかったな
自分はプログラミングがメインのSEなのですが、
そんな中でも不具合調査は意外と嫌いじゃなかった節があります。
なぜかというとプログラムの不具合というのは、明確な原因がある事が大半なので
それを知ることで「なぜそうなったのか」の流れを理解することができ、
関わっている物事への理解が深まっていたからだったと思います。
あれは実は一種の知識欲ではなかっただろうか。
まあ、大体は開発~テスト中で工程上の中の出来事なので当然タイムリミットはあり、
それに追われている状態は非常に嫌でしたが、不具合調査に集中している間はそうそう嫌な気分でもなかったなと。
なので、あれは僕の中で僅かに表出していた知識欲や好奇心だったのではないだろうか、と今は思います。
――――とまあ、こんな感じの事を外気浴で色々と思索をしていました。
なので、今芽生えた好奇心でどこまで物事を吸収できるかを試してみたい感じはあります。
その他:お金を使う事への忌避感について
その後、他に自分が不快 or 気の進まないことはあるかなと思索を続けてみましたが、
浮かんだのは「自分のお金が減る事(≒お金を使う事)」でした。
これがなぜなのかと少し考えてみましたが、
多分生存本能的なものに近いと今日のところは結論付けました。
現代においてお金がなくなると生活が立ち行かなくなりますからね。
節約的なことは独り暮らし始めた大学生の頃からずっとやってましたし、
それ以前からスーパーの半額シールの存在を知って、積極的に探して購入したりしてました。
そういう行動の繰り返しで、仕送り前提ではありましたが、
とにかく貯金がなくならないよう常に意識はしてました。
当然、必要なものにはお金を払いますが、それでもお金が減る事が気持ちが良かったことはない。
今はそれに加え「投資」という、当面お金を貯める目的が出来てしまいましたからね。
これは多分完全リタイアできるまではまとわりつくでしょう。
てことは到達点は資産1億円かな…長い…。
ただ、今回の件で好奇心や知識欲に対してはお金を払えるようにはなりたいかな…
とは思いました。どこまで生存本能の壁を取っ払えるか…。
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