アロマリアは自由になりたい

37歳独身が自由を求めて、あがく日々の記録

思い出は救いか、枷(かせ)か

どうもアロマリアです。

ようやくFF14の6.2ストーリーを進め始めました。

アップデートの後、ギャザクラばっかりやってましてね。

セミリタイア準備&引っ越し&ダイエットであまり関心が割けなくて、

そんな中で、何も考えずに、動画とかを横で見ながら操作できるギャザクラは最高に相性が良くてですね・・・。

 

さて、今日のテーマは「思い出」に関する事柄です。

 

自分はこれまでけっこう思い出の品を大事にしていて、

かなり細かいものまで残しておく性分でした。

それこそ、

・小学校時代からのプリントとか教科書、ノート

・大昔の雑誌

・旅行で行った先の観光地のパンフレット

・もらった手紙

・誰からもらったかも忘れてしまったプリクラ

etc...

まで残すぐらいには。

 

それは自分が歩んだ軌跡であり、

「いつか読んだり見返したりして、以前のことを懐かしむかもしれない」

という将来への希望を含んだ行為でした。

 

ただ、思い出の品ってのは学生時代に多く残り、

社会人になってからは仕事仕事で全然貯まることはありませんでした。

自分は大学院まで出たので、学生は24歳まで。

今は36歳。実に人生の1/3は思い出の品的には空白の時間なわけです。

 

その間で自分は思い出の品を見返すことはありませんでした。

あったのは、貯蔵コストだけ。

 

さて、今年の春から休職して、引っ越しのために

断捨離をし始めました。

いやはやかなりの不要品の量。

引っ越しをいつかしようしようと思っていましたが、

この不要品の山が、引っ越しなどの行動の決断を遮っていた側面があったとおもいます。

動かすの面倒ですし。

 

そんな中、思い出の品々を見つけたわけです。

しかし

・時間がたちすぎていたこと、

・仕事のプレッシャーや忙殺されたことから、記憶や性格が焼かれた

ためか、思っていたほどの感慨深さを感じませんでした。

 

そこで思いました。

「この思い出の品を思い返す時は、この先果たして来るのだろうか」

と。

 

なぜなら、この12年、実に人生の1/3思い返すことがなかったものです。

そして、そこにある思い出の品々は行動する上でただの荷物と化している。

 

タイトルの「思い出が枷となる」はこういう部分で感じたことです。

対して「思い出が救いとなる」というのは、これらの積み重ねの果てに今の自分がいるという自負が形となったもの。

今まで自分はそれが自分を支えていると思っていました。

ですが、ここに至るまで自分はそれを思い出すことはなかった。

 

 

自分は遂にそれらを最低限になるまで捨て始めました。

残したのは、写真とか住所が記載されたハガキぐらい。

 

お盆に実家に帰った時も、上記のカテゴリ以外はほぼ捨てました。

随分スッキリしたと思います。

 

 

現代は自分が子供の頃に比べ、情報が氾濫し、随分とスピード感も上がりました。

それこそ、思い出を振り返ることすらも余計な時間の使い方と思えるほどに。

それはもう「そういう時代だから」としか言いようがない。

 

セミリタイアして、安定した経済状況になれば、その時は

自分の脳内から思い出を掘り返して、こうしてブログなりに書いて

当時に思いを馳せようかと思います。

 

 

自分にとっての思い出は、そのぐらいの重さで良い。

 

 

そういえば、HDDを見つけて、そこで大学時代の活動の写真とかを見つけましたね。

まー・・・本当に自分がいい笑顔してましたね。

今を楽しみ、未来に希望を抱いている若者の顔でした。

自分は、あの頃の感覚を少しでも取り戻したいが故にセミリタイアをする気がします。

 

その時も写真は撮ると思いますが、なるべく行動の枷にならないような増やし方をすると思います。

 

 

 

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